旅する若者 〜第84回 歯科医師夫婦のつれづれ手帖〜

歯科医師夫婦のつれづれ手帖は、歯科医院を共に営む夫(真面目なのでここではマジオ君)とともに、医院を訪れる患者さんに自分たちの人となりを知ってもらいたいという気持ちから、2014年から院内新聞の一角に書き始めた小さな文章。
なんだかんだで続いています。
ルールは2つだけ。
1 必ず毎月、どちらかが書く。
2 内容は、歯科治療以外の事とする。(時々ルール違反あり)

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ベル

私は家の中から一歩も外に出たことはないんです。家の中が世界。それで幸せ。なんで人間は、こうも外の世界に飛び出したいのかな~?

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のあみ

昔は自分の領地を出ることも大冒険だったんだね〜。それにしても最近の若者は、日本が心地良すぎて、外に出たがらないと聞いたよ。必ずしも距離は関係なく、何にでも挑戦する「旅する若者」が増えてほしいと思う「元若者」です。

第84回 旅する若者

コロナ禍で頻繁に出張することは出来ないが、新幹線に乗り込み、コーヒーを飲みながら車内紙をめくるひと時が好きだ。特にも、「深夜特急」の作者である沢木耕太郎氏のエッセイが気に入ってる。今年6月号の内容は、吉田松陰に関しての興味深いものだった。

松陰と言えば、「松下村塾」で教えを受けたものから明治維新の立役者が多く巣立ったことから、「教育者」のイメージが強い。しかし、それは二十代後半の松陰であり、二十代前半は「旅する若者」であったらしい。22歳から23歳にかけては、東北を一周している。江戸で知り合い意気投合した熊本の藩士と、日本の国防の現状把握のために奥州を訪ねることを決め、藩に願い出て許可される。しかし、通行手形の交付が遅れ、約束の出発日には間に合わない。他藩の人士との約束をたがえれば、長州藩が笑いものになってしまうと、なんと脱藩してまで旅に出る。自らの命を危険にさらすだけでなく、家の断絶もあり得る選択。松陰にとってこの旅は、失ったものに比べ得たものが甚だしく少なかったと言う者もいる。だが、自分も「旅する若者」であった沢木氏は、そうは考えない。

実際、松陰は東北の旅を総括する友への手紙の中で、「人は学んでから旅に出るというが、自分は旅に出てから学ぶタイプだ」と述べてるそうだ。すなわち、己の学問が書斎の中ではなく、行動のうちにあることを痛感したに違いない。

人生の折り返し地点を過ぎたこの歳にもなると、さすがに後先を考えずに行動に出ることは出来ない。しかし、「旅する若者」を応援することは出来る。おそらくは、脱藩者が長期間旅行出来たのは、それを支えた者もいたからではないだろうか?松陰は29歳の若さで刑死するが、多くのひとの人生に深い爪痕を残した。私自身は、常識にとらわれた行動をとりがちだが、常識にとらわれず事をなそうとする人間が嫌いではない。そういう人を応援できる心と環境を維持して、生きたい。 (文 まじお)

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